リプレー S3 フランス 『聖王ルイの戦い』

まずは自分で‥ってことで突貫で書きました。小説になっちゃいました。
できの悪いのは無視してください‥よろしくです。チン太


プロローグ


1229年、新春。パリ。15歳の若き王、ルイ9世は悩んでいた。
母ブランシュ・ド・カスティーユの干渉が過ぎるのである。

即位して3年、そろそろルイ9世みずから親政に乗り出してもいいころだが、母からしてみれば大人しい性格のルイは頼りなく見えるらしい。
『私がいなければカペー家は一日ともたない』と思っている節もあった。

それは確かに事実の一端を示している。
地方分権といえば聞こえはいいが各地で諸侯が半独立のかまえを示しているフランスにおいて、母ブランシュの政治手腕が彼らを押さえつけているのは衆目の一致するところだったからである。

ゆえに、ブランシュの政治的過干渉は仕方ないとルイ9世は理解していた。
しかし息子の寝室、つまり性生活にまで口を出してくるとなってはさすがのルイも『いいかげんにしてくれ』と言いたくなろうというものである。


ルイが先月むかえたばかりの妻、マルグリットは美しかった。
『ルイの妻には醜い女を。自堕落にならないように。王としての務めを忘れないように』という母の希望は無視された。

ブランシェットはそのことで感情的になっており、美しきマルグリットに厳命していた。

『そなた達が会うのは、最低限、子供を作る時だけでよろしい。それ以外の時に会う必要もないはずです』

そして二人に監視をつけ『必要以上の性生活』を禁じた。




マルグリットは泣いてルイにその仕打ちを訴える。

ルイはマルグリットの頭をかかえ、黄金の髪をなぜながら言う。
『私が隣国を攻め落とすなどし、立派な王であるところを母に見せる。そうすれば母も我らのことを認めてくれるに違いない‥』

かくしてルイは、その性欲のため‥いや母からの自立のため、国土拡張を決意したのだった。



1229年新春 人材


1229年。領土拡張を目指すルイのもとには3人の部下がいた。
修道士アスラン、建築家ヴィラール、学者ソルボンの三人である。



それぞれ官僚としては有能であったが、文弱の徒であり(戦闘力は38、12、9)こと戦場において頼りないことこの上ない。

ルイはため息をつきながら国土に広く人材登用の網を広げる。
その甲斐あって、シモンと名乗る男がルイのもとに現れる。

眼光鋭く、威厳ひとかたならず、一介の騎士とは明らかに違う風情。
それもそのはず、イギリスにおいてレスター伯の地位を与えられた高位の貴族なのである。

元々はフランスの貴族の出だったとはいえ、イギリス宮廷につかえ、王の妹を昨年めとったばかり。
それがなぜわが元にとルイはいぶかしがったが、その理由はシモンの口からは明かされなかった。

しかしとりあえず彼の勇猛さ(戦闘62)は今のフランスでは得がたい戦力として恃むに足る。

ルイは彼を得たことを単純に喜び、宴をはった。


1229年春 欲望


宴の晩。宮殿の庭でひとり涼み酒精を醒ますルイの前に、得体の知れない吟遊詩人が現れた。

男は言う。『この娘は孤児にございまして、ぜひルイ王のお側においていただきたく‥』

王はカトリックであり、正妃マルグリットを心から愛している。
一喝して追い出そうとしたが、吟遊詩人が闇の奥から手を引いてきた娘の顔を見た瞬間、怒声は喉の奥に溶けた。

美貌で言えば、マルグリットには遠く及ぶまい。

しかしサラセン人の血を引いているかのような褐色の肌、黒い髪。彫りの深い顔立ち。
そしてなにより、王であるルイを恐れ、おどおどとした、うかがうような目が、ルイの琴線に触れた。

いずれもフランス貴族の娘、正妃マルグリットにはないものを、その娘は持っていた。

ルイは娘をもらいうけ、さっそく寝室に連れ込んだ。
幸か不幸か、マルグリットは別館で母の厳重な監視下にあり、現段階ではこのことが露見する心配は少なかった。
娘はマライアと名乗った。

翌月、マライアは懐妊した。
何の運命のいたずらか、正妃マルグリットも同時期、妊娠していることがわかった。

月満ちて、妾妃マライアから男子、正妃マルグリットから娘が産まれた。
それぞれ男児はクロード、女児はリリアンと名づけられた。マライアの存在も、そのときはじめて公にされた。

クロードは妾腹ゆえ庶子扱いではあったが、跡継ぎともなりうる男子ということもあり母ブランシェットは意外に寛容であった。
マルグリットはひどく落ち込んだようであったが、ルイは『心から愛しているのはお前だけだ』と慰めた。

しかし、後日、祝宴の場にマルグリット、マライア、二人の妃を同時に招くなど、その太い神経に家臣からは半ばあきれ気味の声が上がったのも事実である。



1230年春 内治


一方、フランスの内治に目を向ければ、ルイは芸術の保護政策を明確に打ち出しており、建築に長けたヴィラールが中心となって、街のいたるところに美術工房を建築していた。
また王自らの人材登用が不調に終わり続けていることを受け、修道士アスランにその役目を任じた。

アスランはその人脈を駆使し、のちに「聖王ルイの生涯」を書いたジョワンヴィルを初めとして有為の人材を着々とルイの側近を増やしつづけた。

重臣ソルボンが大学建設を要請し、ソルボンヌ大学が建設されたのもこのころである。


公私共に順風満帆といえたルイのもとに一報が届いたのは1232年、春のことであった。

伝令いわく、イギリスより、大軍来る‥と。



1230年春 イギリス軍、来襲


イギリス軍迎撃の準備をあわてて整える若き王ルイの顔には緊張があったが、重臣シモンはそんなルイに笑いかけて言った。

『攻め手の大将はグローステスとベーコン、いずれも槍より杖、鎧より修道衣が似合うような輩(戦闘力20台)ですよ。
御大将の手を煩わせるまでもなく、私が蹴散らしてまいりましょう‥』

シモンの言葉は大言壮語ではなかった。
彼が率いた兵士3000は、二倍6000のイギリス軍をたちまちのうちに蹴散らしてしまったのである。


その後も何度かイギリス軍は攻め寄せてくるが、シモンとジョワンヴィルのふたりによって何度となく撃退された。
唯一、したたかな強さを見せたのはロングスォード(戦闘70)が戦場に現れた場合であったが、その際はルイ自らが出陣し、圧倒的大軍で包囲殲滅したのであった。

シモンは言う。
『イギリス軍自体は脅威ではありません』

思わずこぼれたルイの笑顔をたしなめるようにシモンは続ける。
『しかし、フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国)とフェルデナント(カスチラ王国)がいま同時に攻めてきたらやっかいです。
王にはぜひ、後顧の憂いを絶っていただきたく』

ルイはうなずき、彼らのもとに使者を派遣し、同盟を締結したのであった。



この同盟がもたらしたものは大きかった。
シチリア島のパレルモは、ルッジェーロ2世の昔からイスラム、西ヨーロッパ、ビザンツのヘソとして独自の文化が発展しており、彼らとの交易はフランスの‥特に医学の発展に寄与した。
これがのちに、フランスとイギリスの全面戦争における、人的資源の補給速度における差となるのである。


1237年 文化発展


時は流れ1237年。
庶子ジルベールが8歳となり、宮廷に出仕することとなった。

ルイ9世自らが手塩にかけて育てたとはいうものの、能力的には見るべきところのない子供であった。
「お前は口ばかり調子が良くて‥」とルイが叱る姿を見た人間は一人や二人ではない。

確かにジルベールは優秀とはいえなかったが、ひとつだけ美点があった。
芸術文化の香り豊かなフランス宮廷で育ったために、「文化」に対して目ざといところがあったのだ。

ルイはさっそく、彼を国家交易の長に任じた。

パレルモを初めとした各都市をまわり、積極的なサロン外交で進んだ文化を持ち帰ってくれるであろうことを期待したのである。
また同年、長女リリアンをフリードリヒ2世のもとに輿入れさせ、同盟の強化を図ったのだった。



1239年春 失態


1239年。
ルイが国土に目を向けるとイギリス軍は相変わらずフランス領に侵入を繰り返し、各地で略奪を続けている。
業を煮やしたルイだったが、シモンからふと気になる噂を聞きつけた。

罪のない農民や市民から食物を略奪する行為に関し、心あるイギリスの騎士たちは国王への忠誠を失いはじめているというのだ。

ならばとルイはソルボンを間者として放ち、宿敵ロングスォードに寝返りをすすめた。
しかしこれがやぶ蛇、ソルボンはイギリス軍によって捕捉され、すぐに解放されたものの、彼が持っていた膨大な支度金(20000)が奪われたというのだ。

フランスは神聖ローマ帝国との国際貿易という豊かな財源を持っており、すぐに金に困るようなことはなかったが、万年金欠状態のイギリスに力を与えたのはいかにもまずかった。

イギリスは、その金で軍備を整え、これまでにない大規模な攻勢をかけてきたのだ。


フランスは一方的な防戦に追い込まれた。
金・兵糧・将帥、フランスはいずれも潤沢ではあったが兵士のみ過小であり、
イギリス軍の猛攻によって徐々にすり潰されていった。



ここで生きたのは、パレルモから伝わった、イスラム医術である。
もしここで瀉血頼みの旧来医術しかなければ、多くの負傷兵は傷つき倒れたまま、二度と再起できなかったかもしれない。

庶子ジルベールは戦闘はまったくの苦手としていたが、彼が運んできたイスラム文化は、ひとかどの戦上手以上に、兵士の命を救ったのであった。


1239年冬 賭け



ルイはギリギリの状況で賭けに出た。

いくら負傷兵の回復がイギリス軍より早いとはいえ、このままであれば座して死を待つに等しい。

であればいっそ‥。

そう判断したルイは、シモン、ジョワンヴィル、ジルベールらとそれぞれ一軍を率いつつコッソリ城を出て、一路、ロンドンに向かった。
幸い、ロンドンへの道はソルボンによって拓かれている。


ルイらは、電撃石火のスピードで、ロンドン城を包囲した。

驚いたのはイギリス王ヘンリー3世である。
敵を包囲せんと意気込んでいたところに、敵にいつのまにか包囲されていたのだから。

慌ててフランスより帰国し、ルイらに突撃をこころみるイギリス軍、ロングスォードら。
フランス軍はイギリス外征軍を撃退する。
しかし、イギリス軍の猛攻でフランス兵は損耗し、ルイはせっかく包囲したロンドン城を攻め滅ぼすどころではない。

しかし、ここからがルイの真の狙いであった。ルイは過少になった軍隊でも包囲を解かず、イギリス軍どころか、ネズミ一匹、外に出ることを許さなかったのである。

この隙に、フランス本国のソルボンヌらは、イギリスによって略奪され荒れた自領に村を建設、人口を増やし、兵士の増強につとめた。


1240年春 圧倒


もともとの国力ではイギリスを圧倒するフランスである。
たちまちのうちに兵力はイギリスを優越し、数万におよぶ軍勢が揃い、ロンドンのルイのもとに馳せ参じる。


ヘンリー3世は城壁の外を埋め尽くすフランス軍になすすべもなく頭を抱えたと伝わる。
勇士ロングスォードはこの状況に歯噛みをしつつも王を叱咤し、最期の戦いに備えていた。

そして城内になだれ込むフランス軍。
王に代わって防衛線を指揮するロングスォードは一人の騎士の姿をみとめるや叫んだ。

『シモン‥シモン・ド・モンフォール!この裏切り者!』

シモンはかすかに笑うと配下の騎士たちに『あれを捕らえて功とせよ』と命じた。

殺到する騎士たち。ロングスォードは鉄仮面の下に憤怒の表情を隠しながら馬上で鉄槌をふるい、次々とフランス騎士らを打ち倒す。
金属音と悲鳴と死体が折り重なり続ける。

しかしついにロングスォードの槌が折れ、彼の手から武器が失われた。
勇士は馬から降り、敵の死体から何がしかの武器を得ようとしたとき、シモンが投じた槍がロングスォードの背に鋭く突き立った。

ロングスォードは口からふきこぼれる血を手で抑えながら、シモンを睨み、ついに地に倒れふした。

それを見たイギリス軍兵士たちは戦意をなくし、つぎつぎに武器を打ち捨てはじめた。

ルイは、イギリスを得たのだ。


1240年春 聖王ルイ


勝利に沸くフランス軍の元に一通の悲報が届く。
王母ブランシェットの死である。


『私がひとかどの王になった姿を見ていただきたかった‥』

人目はばからずむせび泣くルイであったが、その裏でしっかり、イギリス王妃エリーナは自分の妾にする手はずは整えていた。


このときのカトリックにあるまじき所業から、聖王ルイとのちに呼ばれる男は、同時にこうも呼ばれることとなった。

性王と‥。

(おわり)




  • 楽しかったです。オチもちょろっと効いて(笑) -- よしあき (2007-09-18 16:52:45)
  • ありがとうございます。またなんか書きますね -- チン太 (2007-09-18 22:02:34)
  • 病室で読んでいて、お茶吹きました。面白かったです。 -- きょう (2007-12-22 02:01:40)
  • きょうさん、お大事に。早くよくなって、リプレー書いてねー -- チン太 (2007-12-25 23:09:02)
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最終更新:2007年12月25日 23:09
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