大前提
それは、まず聞くこと。聞き覚え・聞き馴染みがしっかりとあるかどうかということである。
何度も聞いて、耳に・脳に・体に、染み込んだリズムであることで、
ようやく、自分でもある程度上手に再現できる可能性がある。
ようやく、自分でもある程度上手に再現できる可能性がある。
そしてパルマは歌やギターと当然ながら強く結びついており、
パルマ単独で学べるものでもない。
パルマ単独で学べるものでもない。
現地の人は幼い頃から普段の楽しみの中で積み重ねていく。
カウントやパターンを短期間で習って、その場だけで頭だけで覚えて練習しても、身に付くことは無い。
まして、今まさに再現しよう・表現したいというリズムや音色やニュアンスを、もし聞いたことがないとしたら、再現出来るはずもない。
聞く
パルマ練習するとき、楽譜のように、とあるパターンや順番としてとらえて習おう覚えようとする人は多い。
本来は実物を飽きるくらいに聞いてその音色やニュアンスが自然に入って来ない限り、パルマが出来るようになるはずはない。
教科書を読んで単語と文法がわかれば言語が話せるようになるわけではない…のと同じである。
音楽全体として俯瞰するようにとらえる、または歌やギター、踊りとの「会話」としての細部をとらえる必要がある。
音楽全体として俯瞰するようにとらえる、または歌やギター、踊りとの「会話」としての細部をとらえる必要がある。
パルマからはじめる
フラメンコの曲は、特に舞台での踊りの場合、ほとんどギターから始まる。
だがギターが弾き始める音楽のリズムも、パルマが発するべきリズムも、本来は同じである。
つまりギターがなく、パルマのみで明確なリズムをだして曲を始めることが、本当ならできるはずである。
だが多くの人は、すんなりと自分のパルマでフラメンコや、とあるパートをはじめることができない。いわば、「スタートはギター頼り」の場合が非常に多い。
だが多くの人は、すんなりと自分のパルマでフラメンコや、とあるパートをはじめることができない。いわば、「スタートはギター頼り」の場合が非常に多い。
また、その曲を踊る以上は、本来なら踊る以前にリズムを十分に理解して、ある程度のパルマができて当然である。
しかし実際多くの踊り手は、効果的なパルマが出来る人は極めて少ない。踊りの振り付けは覚えて、からだやテクニックの練習はできても、中身のコンパス・ニュアンスの学習や鍛錬は貧弱だからである。
しかし実際多くの踊り手は、効果的なパルマが出来る人は極めて少ない。踊りの振り付けは覚えて、からだやテクニックの練習はできても、中身のコンパス・ニュアンスの学習や鍛錬は貧弱だからである。
リズムの理解が乏しい上、迷いや照れが生じて、スムースに始めることができない。
パルマは装飾音ではないんだ
踊りやギターがメインで、パルマや、さもすればカンテさえもBGM、お飾りであるかのようなスタンスの人は少なくない。
パルマは、まずはカンテを支えるベースである。現地ではパルマとカンテだけでフラメンコは成立する。(ただしベース…といっても、メトロノームのような無機質なリズムでもない。)
パルマは、まずはカンテを支えるベースである。現地ではパルマとカンテだけでフラメンコは成立する。(ただしベース…といっても、メトロノームのような無機質なリズムでもない。)
ベースである自覚や責任感がなく、装飾音、賑やかしになってしまったり、むしろうるさかったり。または反対に、怖がりすぎて、自粛しすぎて、なんの支えにもなっていないことも少なくない。
支えすぎる
コントラ
私達日本人にとって、リズムを「ウラ」・「オモテ」という言葉で理解するのは若干の問題がある。
一枚の紙の裏表のように表裏一体、一本の線のようであればよいと思われるが、実際日本でやってしまっている誤ったウラオモテは、「上下動」、例えるといわば「天地」であり、表=地、裏=天…のように、リズムが乖離してしまっている場合が多い
一枚の紙の裏表のように表裏一体、一本の線のようであればよいと思われるが、実際日本でやってしまっている誤ったウラオモテは、「上下動」、例えるといわば「天地」であり、表=地、裏=天…のように、リズムが乖離してしまっている場合が多い
アセント
単に表面的・縦ノリな「強」「弱」の2種類を使ったパターンだと考えている人も多い。
実際には、端的に表現すれば「バイブレーション」があると考えてもらいたい。
拍という「点」や、その「強弱」だけでなく、流れもあれば長さもあり、前後関係もある。もっと立体的なものです。時間の概念も加わるから、あるいみの4次元かもしれない(もっとも、これはパルマに限らない「コンパス」のはなし…となる)
「ほしい」ニュアンス
フラメンコに楽譜はないとは言いますが、実際は振り付けはほとんど決まっていて、楽譜があるようなものですよね。なので、「ここはこんなパルマ」「ここは止まる/続ける」いろんなことをあらかじめ「決めて」いい感じに仕上げていくのもありです。
どの部分でどんなパルマをするか、そういったセオリー的なものがないわけではないです。
でも、本当は「ここはこういうニュアンスがほしい」→強さ、音色、密度、止まり方やつづけ方…「今の瞬間、〇〇なニュアンスがほしい」って「気持ち」「意志」を持ってもらいたいです。
そのためにはいろんなものを聞いて、自分なりにでも耳や感覚の経験値を上げておく必要があるし、踊る・弾く・歌う・パルマ、いつの時でもセンサー・アンテナを張っておく必要がある。意志・気持ちのための「テンション」も要る
ぼんやりと、なにも感じず・思わずに順番どおりに演じてしまったり、セオリーだから・そう決めたから…でなんの気持ちももたずにやってしまうのはダメだと思います。
なにかを感じたり・気持ちがあればこそ、ましてや複数の人間の臨機応変のセッションという前提だから、変化していったりもするのは当たり前ですし、だからこそ楽しいはずです。
なにかを感じたり・気持ちがあればこそ、ましてや複数の人間の臨機応変のセッションという前提だから、変化していったりもするのは当たり前ですし、だからこそ楽しいはずです。
「しめ」るニュアンス
コンパスの終わりの部分を"cierre"シエレといいます。これは「閉めること」ですが、奇しくも日本語の「閉める」は「〆る」「締める」「絞める」などです。止まる/止めるんだけど、止めるとは言わずに「しめる」なんですよね。
また一見続いているコンパスの中にも、小さく「しめる」感じは随所にあります。1コンパスのなかに複数回「しめる」があったりします。アセントってのは、強く発するだけじゃなく、シメだったりもします。
どうしても無意識にルンルン・ちゃんちゃん…と続いてしまうパルマになってしまうことが多く、「しまりのない」ことが大変多いです。